昭和52年4月15日 朝の御理解
                                                中村良一
御理解 第56節
「日にちさえたてば世間が広うなってゆく。ひそかにして信心はせよ。」



これは、例えば、信心を抜きにして考えましても、色んな難儀な問題、色んな、例えば、事がありましても、段々、日にちがたてば、いわゆる、世間が広うなってくるという様なおかげが頂けるもんです。けれども、ひそかにして信心はせよと仰いますから。あの、信心をさせて頂く者は、どういうような場合であっても、段々、世間が広いうなってくるという事は、ね。それこそ、まぁ、こっそり、お参りをせにゃならんといった様な場合もある。または、ひそかに、自分の信心を、それこそ、神様と、お取次ぎをしてくださる先生と、自分だけしか知らない、分からないと言った様な問題を、お取次ぎを願うて行くうちに、いわゆる、世間が広いうなると言うのではなくて、自分の心が広うなる。ね。自分の心が広うなって行くのです。ね。ひそかにして信心をせよ。ね。それが、何時の間にか、何とはなしに、世間が広うなっただけでは、つまりません。まぁ、例えば、まぁ、世間から、後ろ指をいさされる様な事があると致しましょうか。ね。それでも、何時の間にか、それこそ、人の噂も七十五日で、ね。世間が、言うならば、とやこう言わん様になってくる。段々、いわば、世間が広うなる。そういう意味の事を、大体、ここには言ってあるのですけれども、最後の所が違う、ね。ひそかにして、信心をせよと。だから、どういうような事柄であっても、心が広うなるという事は、心が豊かに、大きくなるということなんですけれども。その豊かに大きく、どうしてなれるかと。こういう様な、例えば、問題が、ね。例えば、許せないとか、ね。また、自分の心一つには、持ちきらないといった様な事がありますけれども、ね。ひそかにして、信心をしておりますと、神様が、ね。色々と、教えをして下さる。その教えを頂くたんべんに、自分の心が、穏やかに、豊かに、大きゅうなって、ね。例えば、人が、言うなら言え、笑うなら笑え。もうとにかく、神様だけしか、おすがりするものはないと、ひそかに信心しておると、そっから、道は開けてくる。
昨日一昨日でしたか。小郡の石川礼子さんが、御礼に出て見えまして、あの人は、まぁほんとに、本当に、ひっそり、ただ信心されます。もう本当に、ひっそりとしたです。誰も知らん。もうそれこそ、神様と私だけしか知らんと言うような信心です。ね。まぁ、しいて、それを言うなら、久富繁雄さんぐらいな事でしょう。ね。もう本当に、ひっそりとして信心をされます。ね。やっぱ、おかげ頂く人は違うのうと言うて、久富さんと、何時も話すことです。誰も気付かない、知らない。ですから、本当に、もう本当に、おかげ頂かれます。従業員の上にも、お店の上にも、先日から健康、もう、ちょうど、三ヶ月ぐらい前だったでしょうか。お腹に、こぶし大の塊が出来て、大変心配して、とにかく、お届けをして医者に見せていただくというお届けに見えましたから、医者に見せなさらんでん良かがと。医者に見すると、どうか言うからね。それでも心配だと。神様におすがりしときゃ良かがと、私が言うて、言うておりましたら、昨日一昨日、御礼に出てきてからです。確かにもう、昨日か一昨日ぐらいまで、あったち言う訳です。それが、今朝から、ちょっとこう、お腹をさすって頂いたら、全然、それがない。もう、びっくりして、その、御礼に出て来たと言うのです。もう、日頃の、ひそかな信心がね。そういうように、やはり、おかげを呼ぶわけです。ね。もう何か、一つのことをしても、五つも、十もした様な感じで、信心する人がありましょうが。賑やかな信心をね、言うならば。どっちが良いの、悪いのという事はありませんけれども。今日は、私は、ひそかにして信心すれば、心が開けてくるという事です。
石川さんの、色んな、もう、色んな人間関係、人事問題が、特にでしたけども。本当に、ひっそりとして、やはり、神様におすがりし抜かれました。それで、まぁ、とにかくあの、あそこは、何ち言うですか。あの、毎日、関さんが参って見えますが、あの、関さんが言われるのに、とにかく、小郡の百万両と言う意味なんです。もう、百万両のご主人のごたる、素晴らしい人はなかと言うて、あの、小郡界隈の人達は言うそうですね。信心いただいとりなさるけん違う。私どんな、信心しよるけんで、こうせじゃ、こうだあぁだと言うて、如何にも、信心宣伝文句に使うような人達がある中に、もう、それこそ、はぁ、あっちは、金光様の信心、熱心にしなさるけんで、聞いた者が、はぁそるけん違うという風に言うという事を聞かせて頂いた事がありますがね。いわゆる、ひっそりとした、言うなら信心。ひそかにして信心をする。それでいて、ほんなら、神様と、言うなら、取次ぎをしておられる先生だけしか、ほんならその、内緒のこととか、秘密のことと言う意味じゃないですけれども、知らんと言うような、言うならば、信心に、いわば、身が入っていくのが、私は、感じられるような信心をされます。
昨日は、研修が出来ませんでしたけれども、まぁちょっとでもと思うて、まぁみんな、もう御祈念の後に、四時の御祈念の後に話したことでしたけれども、昨日の御理解は、ここの前の五十五節でしたよね。信心しておれば、一年一年有難うなって来るという事なんです。何故、有難うなって来るかと言うと、言うなら、ね。心が開けてくるからです。心が豊かになってくるからです。何故、広うなるのか、豊かになるかと言うと、神様を信ずるから、心が広うなれるんです。豊かにもなれるんです。ね。歯を喰いしばって辛抱するという事じゃないです。一年一年有難うなっていくという信心。それで、もう今日は、皆さんが、色々、一人に纏めを読んでもらって、今日は時間がないから、ほんなら、今日の御理解で分からなかったところがあるならば、その分からなかったところを質問してもらおうかねと言うて申しましたら、誰も分からんところは無かった、昨日はもう、懇切丁寧な御理解だから、みんな分かったと、こういう訳なんです。そんなら、私が質問しようと言って、お互いが分からないところすら、分かっていないという事に、何時も気が付きますね。
私は、昨日、御理解の中に、歌の文句を入れたのがあった、ね。「家のお父さんな位がござる、何の位か酒食らい。」あぁいう、例えば、雑な歌を、御理解の中に、しかも、一年一年有難うなっていくと言うような、しっとりとした御理解の中に、あぁいう笑い話のような歌を、何故、私が入れたか分かってるか。分からない。ね。私、あら、何故、あげな事を言いよりなするじゃろうかと言うところは、分からないところですから、やはり、質問せにゃいかんです。皆さんは分かっておられたでしょうか。ね。勿論、ここには、この御理解には、ね。信心をしてれば、年が寄るほど位が付くものじゃと言う。どういう位かと言うと、有難き、勿体なき、恐れ多きの、神酒を奉れと仰る。そういう有難いという度合いが、一つの位になるんだと。ね。ところが、信心はしておる、おかげは頂いておるから、有難い、勿体ないと言いよるけれども。それは、ちょうど、酒に酔うたようなもので、場合になると、酔狂が出ることにもなりかねない。ね。有難き、勿体なきじゃないからだ。お酒だからだ。有難き、勿体なきの間は、有難いけれども、ね。お酒になると酔狂が出るという。ね。それじゃ、言うならば、位どころか、酒食らいという事になるのだと。ね。
ご信心をさせて頂いておって、はぁ本当に自分な有難い有難い。こうして信心を何十年も続けておるけれども、自分の酒の食らいではなくて、いや、有難き、勿体なきの、なきの位ではなくて、ね。酒食らいのほうではなかろうかと、ね。おかげだけを頂いてきた。言うならば、位であるとするならばです。信心は進まん、心は広うならん、心は豊かにならん。はぁこれが、信心の徳であろうか、喜びであろうかと言うような喜びも感じられないとするならばです。あーたは、いうなら、位を頂いたのじゃなくて、酒食らいを頂いておるのである、という訳なんです。はぁ、そげな意味でしたかという訳なんです。ね。そういう御理解が、あの御理解に入ってくると、自分自身の信心を、本当の位か、酒くらいかという事を、はっきり分からせられるのです。まぁ、合楽の御理解の、一つの独壇場の様なものだけれども、結局、私の信心なりのもので、・・・。
昨日、それこそ、お芝居のセリフの調子で、ね。ある難儀な問題、難儀な問題と言うよりも、壁にぶっつかったと言ったような人のお届けをさせて貰いよりましたら、その壁を、突き抜けるぐらいな事はです。ね。何でもない、神様からしてみれば、その何でもないという事をです。神様は、わっけも無いことと、お芝居のセリフの口調で頂いたんです。それは分からなかった、何故か。ね。なぜ、そんくらいの事は、何でもない事だとか、ね。それこそ、訳もないことだと。ただ、教えて下されば良い様なんだけれども。何故、わざわざ、歌舞伎調に、ね。わっけも無いことという、セリフのような言葉を、神様が使うて、私に教えてくださった。あれは、言うならば、私でなからなければ分からない、ね。そして、ほんなら、昨日の御理解を頂いてみてです。ね。神様は、昨日の御理解の芯でありました、お鍛えを下さるという事でしたよね。ね。
ははぁ、今日、私が、お願いして、神様は、訳もないことだけれども、おかげを見せなさらんところは、神様が、あの人を、鍛うておられる時だなと思うた。言うならば、神様のご演出だという事が分かった。その、神様の御演出という事がです、ね。お芝居の調子で頂いて、はぁあれは、神様のお芝居だったという事が分かるのです。神様の御演出。信心が、ね。やっぱ、本気で、いうなら、熱が入ってくる。信心に熱が入ってくると、必ず、神様のお試しがありますぞと、教祖様は、ご晩年の頃、その事を、来る人毎に仰っておられたという事です。信心に身が入ってくると、お試しがありますぞと。油断をしてはなりませんというわけです。はぁ有難い、勿体ない、はぁこげなおかげ頂いてと。本当に有難い、勿体ないと言いよるけん。本当に、どのくらい有難いか、勿体ないかを、神様が、試しなさらなければならない必要を、神様は感じなさる訳です。出来た出来たと言いよるけれども、試験を一遍、して見らないと、どのくらい、本当の実力が付いておるかという事を、教えた先生が分からなければならない様に、ね。神様もまた、同じこと。
はぁ私は、金光様の信心して、おかげ頂いております、有難うございますと言うても、ほんなら、金光様の信心を頂いておる値打ちが、どこにどれだけあるのか、ね。どれだけ有難いと、本当に思うておるかという時に、やはり、お試しを下さる。そのお試しこそ、やはり、お鍛えである。そして、はっきりと、それを自分のものにしていくことが出来るという訳です。ね。そういう信心がです、ね。確かにその、賑やかな信心。言うならば、まぁいうなら、そうですね。まぁお詫びの信心とでも申しましょうか、ね。を、しておる人よりも、一人ひそかに信心をせよと仰る。ひそかに信心をして、ひそかに神様との交流を楽しみ、喜ばせて頂いておるという様な人はです。あの、何かの時に、それこそ、石川さんじゃないけれども。とっても、あっちの先生は良いと。百万両のご主人は素晴らしいと、と、まぁ言うという事がです。あっちはあーた、金光様の信心なさるけん、やっぱ、違いなさいますよと言われるくらいに。はぁ道理で違うと思うとったという事になる。ね。神様だけが、言うなら、ご承知の世界に生き抜くという。今日、私は、ひそかにして信心せよ。ここに、ひそかにして信心せよという事が、一言、この御理解に入っていなかったら、これは、世間並みのことになります。どういう事が起こっても、ね。もう本当に残念無念と、こう思うておる様な事でも、日にちがたつにしたがって、それが段々消えていく。それでは世間並み、ね。日にちさえたてば、世間が広うなってくるだけではいかんのです。ね。それが、信心により、教えによって、心が広うなっていくというところにです。そういう心が広う、豊かになっていくという事にはです、ね。ひそかにしてする信心が要ると言うことです。
昨日、今、歯医者に行っておりますから、正義先生が、何時も、送り迎えをしてくれます。昨日、向こうはもう、待たんでよいように、ちゃんと時間が、何時から何時までに来てくださいという事である。それで、二時四十分でしたか。あー、一時四十分。あの、一時四十分に、歯医者が来てくれという事ですからと、家内が言うんですよ。末永先生も、そう言ったらしい。だから、ほんなら、一時四十分なら、まぁ、一時二十分ぐらいには、遅くともここを発たなければならないから、私は、用意してきておりましたから、来ませんもん。それから、もう、時間になりましたから、もう表で、すぐ行けれるように待っておりました。そしても来ません。けども、そげな筈はなかて、ね。そらもう、あんたどんが、違うごと聞き違いしとったじゃろうと、ね。正義さんが、時間を間違えることは、絶対無い人だからと、言うておりましたら、あの、ここに、一時四十分だったらしいんです、ね。一時四十分したら、さぁっと入ってくるんです。ね。私は、ひそかにして信心する人は、こう言うところが違うと思うですね。
正義先生のほうが、それこそ、ほんなら、毎日毎日、こうやって、朝参りが出来て、ね。なら、大きな仕事をさせて頂いとりますけれども。その、賑やかな所がない。ね。もう。ほんなら、御用なんかでも、ひそかにして、誰ん知らんごとして、ほんなら御用が出来ておる。それで言い訳がない。はぁそれがあーた、ちょっとこげな訳でと言うことが無い。ね。だから、時間になっても来ませんから、どうしたことじゃろうかと。そら、ほんなら、あんたどんが、時間を聞き違いをしとると。正義さんが間違えるはずは無いと。こういうくらいに、神様から信じられるなら、おかげ頂かん筈は無いですね。やっぱ、人間じゃき、何時か、どげんか間違うというのじゃなくて、あの人は間違うはずはなかて。間違うとるなら、あんたどんが聞き違いしとったつたいと。ね。そしたら、ここを、一時四十分に出ると言うことだった。だから、それこそ、一時四十分には、キチットこうおかげを頂く。ひそかにして信心する内容には、そういうものが、私は要ると思うです。ね。どうも、がたがた言う事とが要らん。ね。これは、ま、ひそかにして信心するという事は、非常にその、含蓄のあるというかね、深さを感じますけれども、ね。
確かに、信心とは、神様だけがご承知の世界に生き抜くことが信心なのですから。誰に見せようとか、誰に分からせようという事ではないのです。けども、まぁ、これは、性格ですから、まぁ色んな人がありますけれども、ね。それだから、ほんならおかげを受けんという事は無いです。賑やかな人には、やっぱ、賑やかなあの、おかげを頂くもんじゃありますけんども。問題はです、ね。世間が広うなっていくという信心だけは、知らなければ行けないという事です。世間が広うなるという事は、何時の間にか忘れられるとか。何時の間にか、きつかった、苦しかった、残念だったといった様な事でも、何時の間にか、自然と消えるというようなものではなくて、自分の心が開けるから。教えを頂いて、神様を信ずるから、心が広うなってくるというのでなからなければなりません。そこには、にぎやかとか、ひそかにとかいう事はありません。ね。
けれども、いうならば、日にちさえたてば、世間が広うなってくるといったような、例えば、事柄とか、問題に直面した時にはです。とりわけ、それこそ、ひそかにひそかに、信心させて頂いて、おかげを頂いた暁に、はぁなるほど、その期間は、きつい、苦しいことでもあったろうけれども、なるほど、信心しなさるから違うと、言われるくらいな信心を頂きたい。そして、本人は、決して、世間から言われる様に、きつくも、苦しくも無い。その事によって信心が分かり、その事によって、有難さは、一段一段進んでいっておるのですから。むしろ、しみじみと、目を瞑れば、ありがた涙がこぼれるような信心に育っていくのだ。ね。そういう信心をさせて貰わなきゃいけない。そういう信心を、私は、神様が喜んでくださる信心だというふうに思います。ね。
昨日、久留米の稲垣さんから、お届けがあったんですが。十三日会の日に、あのように、あちらの弟さんが、鹿児島の佐田さんですね。お参りしてきておりました。そして、あの十三日の、一日の売り上げを、十三日会の御礼十三日会に充てたいというお願いがあっておった。前に参ってきて、もう本当におかげを頂いてから、先日の、先月の十三日には、ちょうど、何時もの二倍、三倍、おかげを頂いておりました、という事でしたが。昨日、稲垣さん、お母さん、参って見えておられます、もう、明日の御大祭、昨日から、見えておるわけでしょう。そのお母さんが一人、店番をしておられる。息子さんは、まだこっちにおる。ですから、今日の十三日は、お母さん、売り上げはどげんじゃったのち。それがあーた、五倍売れたち。ね。しかも、明日のご注文までいただいとる。そら、いよいよ、困ったことになるのと言うた。まぁ笑い話ですけれどもね。あの、神様に喜んで頂くという線で、信心をさせて頂いたら、そういうほんなら、十三日の日のような、思い方がです、毎日出来たら良い、内容が。ね。そすと、日頃の、ね。五倍ずつも売れるという様なおかげを頂く。問題は、それをお供えしなければならんという事じゃ決してない。問題は、その内容が、神様に喜んでいただく御用になっているか、いないかという事なんです。
昨日、日田の坂本さんが、もうあの、十三日会の、とにかく、御神願御成就の日と言われておる。そのために、本当に御神願が成就するような意味で御用するという事は、どういう事だろうかと思うて、十三日の日が、出て来れなかった。だから、十三日の、この神願が成就するような御用の頂き方という事は、どういう事だろうかと思うて、それを思い思い、本当に、神様に喜んで頂く事のためには、先ず、お客さんが喜んでいただくことのためにと、一生懸命に思うて、あの塗装、何ですか、自動車の、塗装、鈑金ち言うですか。ね。あれをなさっておられるが。どげん考えても、昼までかからなんとが、二十分間で済んだち言う。そげなざっとしたこつ。それがもう、とにかく、何と言うでしょうかね。もう、神様がお手伝いをして下さりよるとしか思われないように、順調に進んだというのです。だから、本当に、神様に喜んで頂くような信心と、皆が言いますけれども。それを、いよいよ、神様に喜んで頂くような心掛け。神様に喜んで頂くような御用。同じお参りでも、神様に喜んで頂くようなお参りならと言うところに、焦点を置いて、ね。おかげを頂けばです、ね。三倍が五倍になったり、ね。半日かかるところが、二十分間で、万事お繰り合わせを頂いたりという様な働きにまでなってくるのです。ただ、自分が、我情我欲で、これば、これだけんこつすりゃ、幾ら方なるといった様なもんじゃなくて、ね。本当に、神様が喜んでくださる生き方を、いよいよ、身に付けていかなければならない。そういう生き方の中にです。この、ひそかにして信心するという事が、その内容になってまいりますと、非常にしみじみと、それこそ、神様の心の底が分かって、深さが分かってくる思いが致します。ね。ひそかにして信心をさせて頂き。もう、自分だけが、悦に入っておるという訳じゃないですけれども、ね。ひとりで、有難いものに触れながら、信心が出来る。もう、いよいよ、言うならば、一年一年有難くなってくることでしょう。年をとるほどに位が付いていくことでしょう。ね。そういう信心を、一つ、自分の信心の焦点と言うか、ね。どういう場合であっても、ほんなら、そこを、神様がご覧になって、どう見られるだろうか。神様がご覧になって、どう感じて下さるだろうかと言うようなところに焦点を置いて、自分の言うておる事、しておる事、行うておる事にです、ね。神様の心を、そこに頂きながら、信心生活が出来るようになると、ね。はぁなるほど、あっちは、金光様の信心しなさるけん、あぁ言うおかげも頂きなさる、ね。違うと思いよったがという様な事になってきて、それこそ、無言の中に、合楽示現活動も出来るという事であります。どうぞ。